まず、「
人的資本」の考えの歴史の概要について、説明したいと思います。
人的資本の起源は、18世紀の、アダム・スミスの『諸国民の富』内の記述に求めることができますが、具体的な提唱は、1950年代から1960年代にかけて、経済学者セオドア・シュルツらによってなされました。
1970年代になると、
人的資本が企業や経済発展にとって重要な要素であることを指摘する研究結果が発表されました。そして1990年代には、経済成長やグローバル化が進展する中で、教育や技能の重要性が高まり、「
人的資本」がさらに注目されるようになりました。
現在、企業や政府は、「人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営」である、
人的資本経営を推進しています。つまり、従来は人材を「資源」として捉え、投資ではなく節約の対象としていたのですが、「資本」として捉え直し、投資の対象、すなわちその育成のために積極的に出費するべき存在とし、その考えに基づく経営(=
人的資本経営)を行うようになったのです。また、余談ですが、この捉え直しにより、「人材」に代わる「人財」という呼称も広まっています。
以下で、「
人的資本」の歴史や普及の背景について、詳しく見ていきましょう。
新しい概念の提唱は研究者から始まることが多いです。「
人的資本」も例外ではありません。ここでは、
人的資本の有用性を示唆する20世紀中頃の研究として、2つ挙げます。
1960年代、経済学者ゲーリー・ベッカーは、「
人的資本論」を提唱しました。彼は、教育やトレーニング、健康、技能などが、人間の能力や生産性を向上させ、その結果として賃金や収入を増加させることを指摘しました。1962年には「
人的資本論」を発表しました。この本で
人的資本を経済学の研究対象とすることを提唱し、結果、企業においても
人的資本を有効活用することを重要視する考えが広がり、後述する
人的資本経営の普及に貢献したとされます。
ノーベル経済学賞受賞者ジェイムズ・ヘックマンは、
人的資本の投資が子供の教育や育成に対する長期的な効果をもたらすことを研究し、
人的資本が経済成長に寄与することを指摘しました。
では、なぜ「
人的資本」の考えが、経営に用いられるようになったのでしょうか。ここでは、「
人的資本」の普及の背景、すなわち
人的資本を経済成長や企業の競争力にとって重要な要素だとする考えが広がった理由として考えられるものを、いくつか紹介したいと思います。
技術革新が進展する中で、企業は、高度な技能や知識を持つ人材が必要となり、
人的資本の育成に注力する必要性が生じました。
人口構成の変化、すなわち高齢化の進展により、労働力人口の減少や採用難、人材不足が問題になりました。結果、企業は、より高い生産性を持つ人材の育成が必要になりました。また、優秀な人材を確保するため、働きがいのある職場環境やキャリアアップ制度を整備する必要性も生じました。
グローバル化が進展する中で、競争が激化し、企業はより広範な市場に参入するために、国際的な競争力を持つ人材が必要となりました。結果、企業が持つ最大の競争力は、人材の能力や知識、スキルなどの
人的資本によって決まることが明らかになり、企業は、
人的資本の育成に取り組むようになったとされます。
企業は、イノベーションによる競争優位性の獲得や、新しい技術や知識を取り入れることによる成長を目指すようになりました。結果、従業員のスキルや知識の向上に注力する必要があると考えられるようになりました。
社会における人口構成の変化(上記)に加え、それによる多様性の尊重を求める法律や制度、社会的要請もあり、「多様な人材を活かし、その能力が最大限発揮できる機会を提供することで、イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営」であるダイバーシティ経営が推進されるようになりました。
ダイバーシティ経営の長所としては、企業の、多様化する市場ニーズやリスクへの対応力を高めることや、人々が集まることで新しいアイデアや発想が生まれ、創造性と生産性が向上することなどが挙げられます。そしてこれらの長所は、企業及び社会全体の持続的成長に繋がるとされています。
労働者の権利保護を目的とした法制度の改正により、企業は労働環境の改善や社員教育など、
人的資本に関する取り組みを行うことが求められるようになりました。
また、
人的資本経営の有用性への期待から、投資家が企業の
人的資本に関する取り組みを、投資する際の基準とするように。結果、
人的資本に関する取り組み及びその情報の開示が、必要となった。特に、2009年のリーマンショック以来、金融業界で産業構造の変化の影響に対する認識から、有形資産だけでは企業価値を把握できないという考えが広まり、
人的資本が注目されました。
21世紀に入り、地球温暖化や資源の枯渇といった環境問題や、格差の拡大、人権問題などの社会問題が深刻化したことで、企業の持続可能性や社会的責任が注目されるようになりました。
このような社会的背景の中で、企業が社会的責任を果たすためには、社員が高いスキルや知識を持ち、社会的貢献につながる仕事を行うことが求められるようになりました。結果、社員の能力などが重要となり、
人的資本経営が注目されるようになりました。
また、企業の社会的責任や持続可能性への取り組みは、企業の長期的な企業価値向上に繋がります。その主な理由としては、以下の4つがあります。
- 企業のイメージや評判の向上に繋がる(現代社会では、企業が社会的責任を果たしているかどうかや、環境に配慮しているかどうかが、消費者や投資家の購買行動や投資判断に大きな影響を与えるようになっていて、企業が社会的責任を果たし、持続可能なビジネスモデルを追求することで、消費者や投資家からの支持を得ることができる)こと
- コスト削減や効率化に繋がること
- 従業員の健康管理や多様性の尊重など、社会的責任を果たす取り組みは、労働生産性の向上に繋がること
- 社会的責任や持続可能性への取り組みは、リスク管理にも繋がる(例えば、環境規制の厳格化や社会的要請の高まりに対応できない企業は、企業価値が低下することがある)こと
では、日本では、「
人的資本」の考えがどの程度普及しているのでしょうか。また、その背景には何があるのでしょうか。以下で、日本での「
人的資本」の普及やその背景について、見ていきましょう。
日本で
人的資本や
人的資本経営が重要視されるようになったのは、2000年代以降のことです。主な要因としては、1990年代後半から2000年代に、日本経済が長期的な停滞期に入り、従来の生産性向上による成長戦略が限界に達したことが挙げられます。企業の成長戦略に新たな視点が求められるようになり、その中で、
人的資本や人材の育成・活用が注目された。また、上記要因の結果として、終身雇用ではなく、転職や独立、企業といった、様々なキャリアデザインが出現しました。結果、企業は、それら(多様な働き方)に対応することが必要となり、
人的資本という考えの普及に繋がりました。
要するに、「失われた30年」の脱却のため、
人的資本経営に基づく人事改革がなされたのです。
また、他の先進国(前述)と同様、グローバル化や情報化の進展により、国際競争力を維持するため、人材や知識の重要性が高まったことや、少子高齢化によって人材不足が深刻化したことも、要因として挙げられます。企業は従業員を大切にし、能力開発や職場環境の整備に注力することが求められるようになりました。
ここでは、現在行われている「
人的資本」に基づく取り組みについて、主に政府に焦点を当てて、見ていきたいと思います。
人的資本経営について、企業の取り組みと共に解説していますので、こちらの記事も併せてご覧ください。
企業の取り組みに刺激され、2000年代中盤以降になると、政府が、
人的資本経営に関する施策を積極的に展開するようになり、「人材革命」と称して、教育政策や労働市場の改革を進めました。2002年には「人材育成新法」が制定され、企業が積極的に人材育成に取り組むことを支援する方針が打ち出されました。
最近では、2023年3月に、政府は上場企業に対して
人的資本経営に関する情報を義務化し、開示すべき項目を挙げています。政府が
人的資本経営に関心を持った理由としては、以下のものが挙げられます。
- 企業が積極的に人的資本経営に取り組むことで、社会全体の雇用や所得水準の向上が期待できる。
- 人的資本経営に取り組む企業は、社員の能力やスキルを向上させることで企業の業績向上を図るとともに、社員の働きやすい環境の整備にも努めることが多く、その結果として労働者のワークライフバランスの改善に繋がりうる。
- 「人的資本」とは、人間によって生み出される能力、スキル、知識、経験、健康などの要素を指す用語である
- 「人的資本」は、企業や政府などが人材を資源として捉え、その育成や活用を行う「人的資本経営」として実践されている
- 「人的資本」が注目されるようになった背景には、グローバル化や情報技術の発展、人口構成の変化など、急激な社会環境の変化がある